みさのプロフィール

大学卒業後SEとして5年経験し、
深夜残業や休日出勤で、心身ともに疲れてしまい
本当に好きなことを仕事にしたいと思い、
夢だった客船の仕事に就くことができました!!


でも船中の仕事は結構肉体労働で、安月給。
しかも8ヶ月間1日もお休みがない男性社会。
あと数年は働けるけど、このままずっとは難しいかも。。。

って思っていました。
8ヶ月の海上勤務が終わったら
日本にいる彼氏との関係を前進させようか。。。

と考えていた矢先、帰国後音信不通・・・。
自然消滅でした(泣)

 


せめて長期休暇の間は一緒に過ごそうと
まるまるあけていたのに
スケジュール表は白紙になってしまいました。

働いている友人や既婚者の友人と会っても、
とりためたアニメも全部見ても

それでも、まだまだ休暇は余っています。
このまま家で何もせずおわるなんてなんか悔しい!!

 

もう彼氏に依存せず、

未来は自分で手に入れよう!!
そう覚悟しました。

 


とにかく情報収集して、

【この人について行きたい!!】

【この方法ならみんなが幸せになる!!】

と確信をもってネットビジネス界に飛び込みました。

 


こんな感じで掴みはいかがでしょうか?

 

もしみさのことをもっと知りたい場合は
このまま読み進めてください♪

 

ここからはもっと詳しく幼少時代から
私のプロフィールをご紹介します♪

我慢、ひたすら我慢しすぎてどっかーん!!

私は2人姉妹の次女として誕生しました。
ふつうのよくある姉妹の光景だと思いますが、
私がなにかおもちゃをつかもうものならば
姉が飛んできて奪っていくという日常


先日おなじ光景を友人宅で見ましたが、
弟はギャン泣きしていました。。。

が、

ベイビーだった私は、
泣きもせず、やり返しもせず、
やられっぱなしだったようです。

 

しゃべるのもとても遅く
2歳になっても無口のままで
熱が出ていたことも親が
気づかないほどだったそうです。

 

その後、心配になった親が耳を見ていたら
耳○が詰まっていたそうで、
急いで耳掃除!!

 

そこからは今までの
無口が嘘のように
マシンガントークみさが誕生しました


これは母親から何度も聞く話で、
「耳掃除大事」って家族の教訓になっています。

母よ・・・

劣等感を植え付けられた義務教育

義務教育中は何しろ窮屈でした。

 

全国の末っ子に共感してもらえる気がする・・・。

学校の中で私は○○ちゃんの妹なのです。


習い事も、水泳と日本舞踊はいつも一緒です。

 

同じクラブはいるの?
部活はお姉さんと同じ吹奏楽?
それともお姉さんとは違う運動部??

お姉さん学年で○位だったよ。
あなたはどうなの??

 

日本舞踊も姉の方が表現力があって上手。
劣等感がどんどんふくれあがっていきます。

全然いらない情報がいっぱい私のところに集まります。

 

そう・・・
私の姉は運動も勉強も割と何でもこなせる
文系女子だったのです。

 

 

しかも顔は二重でくっきりした顔立ち。。。

私の七五三なのに、
写真屋さんからモデルにならないか
姉がオファーを受けるほど。

 

もう比較されたくない・・・

 

そんな私はファンタジーな世界に引き込まれます。

小学生の頃はもう「りぼん」が愛読書。
そして、そこからの流れはこんな感じ。


りぼん→花とゆめ→ジャンプ→飛鳥→腐った!!

 

中学では部活が必須。
とにかく姉と真逆の選択肢しか頭にない私は、
水泳しか運動はやったこと無いのに
バレーボール部に入部します。

 

球技なんてやったこと無いですから、
球拾いもまともにできません。
顔面キャッチがデフォで毎日鼻血だして保健室いってました。

 

姉にしてみたら毎日
「みさちゃんまた鼻血で保健室いったよ」
って話をきいて恥ずかしかったそうですが・・・。

 

私なりに姉に比較されない土俵が必要だったのです。
7人しかいない弱小チームでしたが、
それなりに楽しかったです。

 

で、ここまでうまくいってそうですが
一気に転落する出来事が起こってしまったのです。

 

うちの中学校には陸上部が無くて
毎年行われる連合陸上大会には
運動部の選抜メンバーが出場していました。

 

私は姉が活躍できない場はココ!と、ねらいを定め
毎日部活の後、母親に自転車でついてきてもらい
河川敷を往復しマラソンの練習を始め、
連合陸上の1,500mの選手に選ばれることができました。

 

姉に比較されないよう選んだ環境ですが、
自分より早い選手はうじゃうじゃいる世界。
仲の良い友達が1位をかっさらっていき
またまたひどい劣等感に襲われます。。。

 

 

中学内のマラソン大会は3位
連合陸上大会では6位

 


今思えば割とがんばっていたと思います。

 

でも当時は、
何者にもなれない中途半端な
状況にめちゃくちゃ劣等感を感じていました。

「まただめだった」
「どうせ上には上がいる」
「これだけやっても無理なのか」

 

平日は放課後バレーボール部の練習

休日は午前中は陸上の練習
午後はバレーボール部の練習

 

こんな生活を2年間続けていました。
3年目に入ったとき、私の身体に異変が起こり始めます。

 

走るとすぐ息が上がる
練習について行けない
体重がどんどん増えてくる
ちょっとした階段でも休憩しないとのぼれない

 

中学の3年の夏
私は選抜から外されました。

ほっとしたと同時に悔しさもこみ上げて
めちゃくちゃ泣きました・・・

 

最後に選ばれなかったという
劣等感を抱えたまま私は高校生になります。

父はVIPなお客様!?

ここまで読んできた方はあれ父親エピソードない?
なにか複雑な家庭環境かと思う方もいるかもしれません。

 

そうではないのです。
父親は私と同じ世界をまわる船乗りで
1年に1回しか帰ってこなかったのです。

 

なので、会社員の家庭の友達が
「昨日お父さん帰ってくるの遅くて・・・」
とか話していると

 

「え!?あなたのお父さん毎日帰ってくるの?」
って驚いていましたね。

 


学校のイベントに参加すことは
少なかったですが、帰ってきたら3ヶ月は
家にいるのでその間は授業参観とか
うちだけ父親きてる!とかはありました。。。

 

で、船乗りって福利厚生で
衣食住が確保されているので、
乗っている間お金が一切かからないんですよ!

 


そんなわけで、我が家も中の上くらいの
経済状況だったのですが、
母の方針で父がいない間は
質素に暮らすことになっていました。

 


外食もしない。
旅行も行かない。
ディズニーも行かない。
BBQやったこと無い
海、川行かない


父がいない間はマックのポテトで
めっちゃ喜んじゃうくらいの子供でした

 

今思うと、
父親が帰ってきたときに
全力でウェルカムできるようにするための
母なりの工夫だったのかもしれません。
効果は絶大でした。

 


また、家には帰れないけど日本の港に
父親が戻ってきたときは学校休んで
会いに行ったりしていました。

携帯電話も出始めの頃だったので、
いつでも連絡も取れて、寂しいという気持ちを
抱くことはそこまでありませんでした。

 


世界地図を見ながら今ここかな?
なんていいながら父を指折り待っている
そんな子供時代でした。

 

船の中は日本人は父親含め2人だけ。
そのほかは全員フィリピン人でした。
船のバックグラウンドを先に知ってしまったことで
裏方の仕事ってめっちゃかっこいいというのが
私の中で少しずつ大きくなっていました。

異文化交流は○○○からでした。

父親の仕事の関係で我が家にはいつも、
世界各国の食べ物やアイテムが送られてきました。

 

例えば…
マーライオンのチョコレート
中国茶と茶器のセット
アフリカのアクセサリー
カンガルーの○○でできた小銭入れ
天然石詰め合わせ
パピルスの絵画
ターバン

話を聞くのはもちろん楽しいし、
お土産はもらうのとってもうれしい。

 

でもやっぱり自分で見て体験したい!!

 

そんな思いも強くありました。
そして、チャンスが私に舞い降ります。

 

住んでいる地域の中学生18人が
交換留学で1週間姉妹都市に行けるというのです!!

 


書類選考

グループ面接

個人面接

 


を通過し、交換留学のチケットを
なんとか手に入れることができました!!

めちゃくちゃうれしかったです。

 

あなたが初めて海外に行ったのは何歳の時ですか?

 

私は15歳の時でした。
初めての海外。

 

私が日本との違いを感じたのは


<トイレ>


でした。

 


「便座が高い!」
「水流すボタンが見つからない」
「下があいててのぞかれちゃうんじゃないの?」
「トイレットペーパーゴワゴワ」

すべての驚きがトイレにつまっていました!!

 

私にとっては小さな夢の国です。

これは何だ!?

押したらどうなる?

どきどきわくわくします。

そんな経験から、世界のトイレを
研究したいと強く思うようになります。

どん底はココで経験した。

もっと英語が喋れるようになりたい!

英会話に通わせてほしいというと、
公立高校に通うならば習い事しても良い
という条件をだされました。

 

そして、
なんとか公立高校への入学をもぎ取ります。

 

年齢がバレると思いますが、

当時、めちゃくちゃ流行っていたものがコレ!

「テニプリ」

漫画読んでたらできる気になっちゃったんですよ、

・ドライブサーブ
・ツバメ返し
・ジャックナイフ
・無我の境地
・〇〇ゾーン

ラケットすら握ったことがないのに
入っちゃいました。。。

 

テニス部!!


走ることから逃げていた私。
もちろん練習について行けません。

 


すぐ苦しくなるし、眼の前に星が飛びます。

 

1周遅れ、ひどいときは2周遅れなんてことも。


当時私と似たような理由でテニス始める人が
めちゃくちゃ多くて部の先輩方もふるいにかけていたのです。

 

そんなわけで。

 

わたし。1ヶ月で脱落しました。

 

その後、クラスの友人に
「楽だから入ろうよ」って誘われて
バレーボール部に入部します。

本当に最初は楽でした。

同好会のような感じ。
トレーニングなんて4kmを好きなペースで走って終わり。
だれもなにも言いません。

 

しかし、大好きだった優しい3年生が卒業すると
事態は一変します。

 

「どうせなら上を目指そうよ!!」

新しい部長が宣言します。
他の部員も賛成し、チームの方針が
180度変わりました。

 

ちゃんとした顧問やコーチもついて、
めちゃくちゃ厳しくなりました。

 

中学からの経験者ということで
レギュラーをもらえていましたが、
正直ボールさわりたくなかった位
頑張れなかったわたし。。。

 

顧問の先生を怒らせる天才でした。

 

トレーニングの日は掃除を理由に
陶芸部に隠れてみんなが何周か走り始めてから
遅れて参加していました。

 

一緒にスタートして周回遅れの劣等感を
感じたくなかったのです。

 

辞める勇気もない

そもそも言い出す勇気もない

実力で勝負する勇気もない

すべてにおいて優柔不断で
中途半端なときが私の高校生時代でした。

 

その後、高校3年生になったとき、
後輩が入ってきて私はレギュラーから外されました。

 

もうチームにいるのも気まずくなって
3年生最後の夏の合宿、

 

逃げました。

 

部活のメンバーや顧問に内緒で
オーストラリアの姉妹校にいける
短期留学に応募。

 

いわゆる国外逃亡ってやつです。

 

そこまで部活がいやだったら辞めれば
良いじゃないかと思う方もいると思います。

許してくれなかった人がいたのです。

 

母でした。

 

元々運動部出身のため、
根性論で語ることが多く、
私が「部活辞めたい」といっても
聞く耳持ってもらえませんでした。

 


家では
「たるんでる」
「自分に甘い」
「そんなんで辞めたら一生何も続かない」

とメタメタに言われ続け、
自分の部屋に引きこもり
マンガの世界に現実逃避。

 

部活では
「不真面目だ」
「チームワークを乱す」
「連帯責任でトレーニング追加」

チームのメンバーから怒りをかい
「何で生きてるの?」
って厳しい言葉を毎日投げられました。

 

正直あの時はしんどかったなぁ。。。
今思い出しながら書いてても涙がでます。

 


本当はね、がんばりたい。
でも身体が動かないのです。

 

一歩が凄く重くて、

すぐ息が上がっちゃう

私はどんどん自信がなくなり萎縮していきました。

 


萎縮するともっとミスは目立ちました。

ストレスで過食し、

運動部とは思えないほどおでぶでした。

部活はちゃんと引退まで所属しました。

そこは自分を褒めようと思います。

 


そして

この後、大どんでん返しがあるのです。

涙がとまらなかった

受験で希望だったの国際社会が学べる
学部に入れた私はとっても魅力的な
ポスターに出会います。

 

「南米語学研修 IN ペルー&ボリビア」

 


なんとあの天空都市マチュピチュに
学校のプログラムでいけるというのです。
入学して1ヶ月頃の出来事でした。

 

 

1人じゃ怖くて行けないけど、
学校の教授と行ける!!
こんなチャンス次はない!!!

 

 

スペイン語も選択していましたので、
応募の権利がありました。

 


資料をもらい親にお願いし、
無事語学研修に参加できることになりました。

 

で、

 

遂に

 

ここでこれまでの私の劣等感を
生み出した元凶が判明します。

 

「下記の生徒は至急保健室にきなさい」


全生徒が見る掲示板に私の名前がありました。


わたし「???」


疑問に思いながらも保健室に行くと、


先生「何で呼ばれたかわかりますか?」


わたし「えっと…尿検引っかかった、、、とか??」


先生「今のままじゃ南米語学研修に連れて行けません」


わたし「なんで!??」

健康診断結果の書類を受け取ってみると、

【重度の貧血】

の診断がかかれていました。

先生「あなた、よく今まで生活できたわね・・・」


その一言に救われました。


”そっか・・・・”

いくら練習しても、


陰で努力しても全然意味がなかった


顧問を無駄に怒らせたのも


仲間に罵倒され続けたのも


いる意味ないって笑われたのも


親にため息つかれたのも


情けないってあきれられたのも


全部、

ぜ~~んぶ。

貧血だったからなんだ。


その日から、一生懸命治療して

ギリギリの数値で語学研修に参加しました!!


本当に間に合ってよかったし、


中学からの約5年が報われました。

悲劇は私だけじゃない

大学生活にも慣れてきた

二十歳の12/31 大晦日。


私の人生で一番の大事件が起こります。


当時の私は長期留学がしたくて

朝から夜まで飲食店でアルバイトしていました。

大晦日はみんな蕎麦食べるから洋食屋は暇~。


今日は楽だったなぁなんて

23:00にバイトが終わりました。

携帯でメールをみると姉から1通のメールがありました

 


「おばあちゃん死んだ。お父さん脳梗塞で半身麻痺」


目の前が真っ白になりました。


わけもわからず病院に向かいました。


私が家族を支えなくちゃ。

私は手に職をつけるために

未経験でシステムエンジニアになりました。

副業初報酬までの暴露PDFを無料公開中です

私は社会人6年目から副業を開始して会社にバレず、
手取りと同じくらい収益化できています。

生まれ持っての才能や、人脈に恵まれたわけでもありません。

大学を卒業してシステムエンジニアとして5年間働いた後、
旅行業界に転職して給与がバイトと変わらないほどの
低賃金となり毎月カツカツな生活していました。

そんなときに、ビジネスに出会って
客船の仕事で世界を周りながらコツコツと勉強し
収益化することができました。

ビジネスを学んでいくうえで、
人間関係がうまくいく心理学、
面白いと言ってもらえるライティングスキル、
オリジナルコンテンツの作り方など、
普通の会社員では身に付かないことを知ることができました。

その経験から、いまから始めても遅くないし、
勉強して、正しく成長すれば、
好きな時に好きな場所に行き、
食べたいものを食べ、
大切な人と安心して過ごせるようになり、

行動に境界がない《ノーボーダーライフ》を
おくれるようになると思っています。

そういった理念から、私がどのようにビジネスに出会い、
ゼロから初報酬まで結果を残して行ったのか、
その成功体験を一つのPDFにまとめてみました。

文章だけではなく面白いイラストもあり、
マンガ感覚で読める内容なので、
もし興味があれば読んでみてください。

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最後まで読んでいただきありがとうございました。


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